一日一斎物語 (ストーリーで味わう『言志四録』)

毎日一信 佐藤一斎先生の『言志四録』を一章ずつ取り上げて、一話完結の物語に仕立てています(第1066日目より)。 物語をお読みいただき、少しだけ立ち止まって考える時間をもっていただけたなら、それに勝る喜びはありません。

2020年05月

第1936日 「良知・良能」 と 「家庭環境」 についての一考察

今日の神坂課長は、週末恒例の瞑想タイムを過ごすために、いつもの喫茶店にやってきたようです。

「この天だとか地だとかが出てくると、わけがわからなくなるんだよなぁ」
今日は『孟子』を持参しているようです。

「朱子が、天だとか地だとか言い出したのは、この『孟子』の言葉が根本にあるんだな」

神坂課長は、この日『大学』を読むつもりだったようですが、一斎先生の言葉に『孟子』が出て来たので、急遽『孟子』を読むことにしたようです。

「なになに、人間には考えなくても知ることができる力があって、それを良知という。それから、学ばなくても自然に正しく行動する力を良能というのか。どういうことだろう?」

メモ帳に「良知」と「良能」と書いて、考え込んでいます。

「たしかに俺は生まれたときに、誰かに教えられたわけでもないのに、両親を大切に思ったし、兄貴の言うことは素直に聞いたな。それが良知と良能ということなのか」

「ということは、人間というのは生まれながらに良いことをする力をもらって生まれてくることになる。これが性善説ということか」

注文したアイスコーヒーを一口飲んで、また考え始めたようです。

「ちょっとわかってきたぞ。現代は、核家族化が進んで、親が祖父母と一緒に暮らすことが少なくなってきたから、子供は親が祖父母に対して示す敬愛の情を目の当たりにすることが少ないんだな」

「それに今は一人っ子の家も多い。兄弟(姉妹)がいなければ、目上の人に対する態度も学べない。つまり、本来は家庭において自然に身につけておくべき、親孝行や兄弟の情愛みたいなものが、現代では薄くならざるを得ない」

「そのまま、学校に行くから、先生や先輩を尊敬できなかったり、友達とも真の友情をは育くみづらくなるんだな」

「そして、そのまま社会人になると、上司に逆らったり、先輩をバカにしたりしてしまうわけだ」

残りのアイスコーヒーを一気に飲み干して、帰り支度をはじめたようです。

「ウチのガキどもも俺を尊敬しているようには思えないし、兄弟仲が良いのはいいけど、序列があるかというと怪しい感じもするな。まるで友達みたいな感じだしな」

「しかし、世の中の仕組みが変わってしまったとなると、これからはどうやって良知・良能を育てていけばいいんだろう? 本当は、『論語』の素読とかが良いんだろうけど、それを学校で復活させるなんて夢物語だろうなぁ」

「ああ、そういえばこの前、読書会で知り合った杉田さんが、寺子屋をやっていると言ってたな。そういう地道な活動を広げていって、親を親しみ、目上の人を尊敬する気持ちを知ってもらうのが今は一番良いのかもしれないな。よし、杉田さんに連絡をとってみよう!」


ひとりごと

本章は、『孟子』に出てくる「良知」と「良能」についての一斎先生の考察です。

人間は生まれながらに良知と良能をもっている。

それを最初に発揮する場が家庭である、いや家庭だったわけです。

ところが核家族化や一人っ子の家庭が一般的となり、自然に良知・良能を育む機会が失われているのが現代なのかも知れません。

実は、小生が『論語』の話をしたのをきっかけに、九州のとある中学校の校長先生がこれから毎月『論語』の言葉を語っていくと言ってくれました。

また、関西には有志が集まって、寺子屋を開催し、子供たちに偉人の話をしている人もいます。

まだまだ、日本は捨てたものではありません。

こうした地道な活動を、できる範囲でやり続けていきましょう!!


【原文】
慮らずして知る者は天道なり。学ばずして能くする者は地道なり。天地を幷(あわ)せて此の人を成す。畢竟之を逃るる能わず。孟子に至りて始めて之を発す。七篇の要此(ここ)に在り。〔『言志耋録』第10条〕

【意訳】
『孟子』にある「慮らずして知る者」とは天道である。同様に『孟子』にある「学ばずして能くする者」とは地道である。天と地を合せて人間が形成される。結局のところ、ここから逃れることはできない。孟子の時代になってはじめてこの点が取り上げられた。『孟子』の七篇の要点はここにあるのだ

【一日一斎物語的解釈】
人間は、天から与えられた、考えずとも知る力である良知と、地から与えられた、学ばずとも行動できる良能とを持ち合わせて生まれてくる。つまり、人は天地の声に耳を傾けて生きるならば、道を踏み誤ることはないのだ。


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第1935日 「四書」 と 「四季」 についての一考察

「季節の料理ちさと」での晩酌を終えて、佐藤部長と神坂課長は店を出て駅まで歩いているようです。

「そういえば、一斎先生は、四書を春夏秋冬に譬えていましたね。あれは面白いなぁと思いました」

「うん。そしてその順番がそのまま難易度を示しているんだよね」

「なるほど、そういうことですか。ということは、やっぱり『大学』から読むべきなのですね?」

「儒学の基本が書かれている書だし、なによりページ数も少ないので、入門編としては最適だろうね」

「そうかぁ、私は『大学』を飛ばして、いきなりサイさんに『論語』を学んでいるのですが、やっぱり『大学』は読んでおきたいなぁ」

「素読用の本もあるし、解説書もたくさん出ているから、1冊買ってみたら?」

「ああ、じゃあ駅前の本屋さんに寄ってみていいですか?」

二人は深夜0時まで開いている駅前の書店に入ったようです。

「ここはこだわりの本屋さんですよね。自己啓発系の本が充実しています」

「私も大型書店より、S町の大型書店よりこの『ブックランド・バディーズ』をよく利用するよ」

「ああ、ありました。『「新訳」大学・中庸』お、守屋洋先生の本だ。私はこの先生の解説が大好きなんです」

「独特のテイストがあって楽しいよね。『大学』と『中庸』をリーダーの視点で読む本だね。ちょうど良いんじゃない?」

「そうですね。ああ、こっちに角川ソフィア文庫の本もあります。これも中庸とセットなんですね」

「昔から、『大学』と『中庸』は一緒に本になっているケースがほとんどだね」

「もともとは『礼記』にあった篇だからですかね?」

「どうなのかな。二つまとめるとボリューム的にちょうどよいというのもあるかもね」

「なるほど、そうですよね。だって『大学』は最初に読むべき経書で、『中庸』は最後に読むべきなのに、一緒に入っているのはちょっと違和感がありますね」

「そこまで考えなくても良いんじゃない?(笑)」

「ははは、おっしゃるとおりです。よし、この2冊を買います。部長すみません、お付き合い頂いて」

「いやいや、私は本屋さんになら何時間でも居られる人間だから、まったく問題ないよ」

「まずは『大学』を読んで、春を感じるところからスタートさせてみます!」

「また、ともに語り合おう!!」


ひとりごと

一斎先生が四書を春夏秋冬に譬えていますが、それがそのまま四書を読む順序だと言われます。

儒学の基礎を学ぶ『大学』、孔子の教えを学ぶ『論語』、孔子の教えを発展させた『孟子』、そして誠という概念を完成させた『中庸』。

小生も、7月に『大学』を一日で読むイベントを立ち上げたところ、定員10名があっという間に埋まりました。

ありがたい限りです。

ご興味にある方は、コメントをお寄せください。


【原文】
四書の編次には自然の妙有り。大学は春の如く、次第に発生す。論語は夏の如く、万物繁茂す。孟子は秋の如く、実功外に著(あら)わる。中庸は冬の如く、生気内に蓄えらる。〔『言志耋録』第9条〕

【意訳】
四書の編纂には自然の妙味がある。『大学』を学ぶと、まるで春の季節のように徐々に成長していく。『論語』を学ぶと、まるで夏のように万物が成長し繁栄していく。『孟子』を読むと、まるで秋のようにその効果が実を結ぶ。『中庸』を学ぶと、まるで冬のようにわが身を鍛え、内に誠という生気を蓄えることができる

【一日一斎物語的解釈】
四書には読む順序がある。人が一年で春夏秋冬を体験するように、『大学』、『論語』、『孟子』、『中庸』の順に読むことで、自身を大いに修養できるのだ。


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第1934日 「四書」 と 「偉人」 についての一考察

今日の神坂課長は、佐藤部長と「季節の料理ちさと」に居るようです。

「全然知らなかったのですが、『大学』と『中庸』って、朱子が『礼記』から抜き出して、四書に加えたんですね?」

「うん。一斎先生はそれを偉大なる事績だと褒めたたえているよね」

「ということは、もし朱子が四書を整理していなかったら、二宮尊徳さんは、一体何を読んでいたのでしょうね?」

「ははは。神坂君らしい、面白い視点だね。どうだろう? やっぱり『論語』になるんじゃないかな?」

「ああ、なるほど。たしかにそうでしょうね」

「中江藤樹先生も、最初に手にした儒学の経典は『大学』だった。白文(読み下し文ではない、中国語の原本)のままで、最初はまったくわからなかったが、100回以上読んでいるうちに、理解できるようになったそうだよ」

「諦めないところが凄いですよね。私なら、すぐにギブアップです」

「四書五経と言いますが、孔子の時代には四書はひとつもなかったということですね」

「うん、四書を儒学の経典とした朱子という人は、やはり偉大なる儒学中興の祖といえるだろうね」

「はーい、お待たせしました。ポテトサラダと出汁巻き玉子です」
ちさとママが料理を運んできたようです。

「おー、待ってました! このポテサラと出汁巻きは、絶対他では食べられない味だよね」

「ありがとう。私の愛情をたくさん込めているからね!」

「でもさ、マスクをして、ビニールシート越しの接客だと、ママの美しさが伝わらないよね」

「マスクの下を想像する楽しみがあるんじゃない?」

「ああ、なるほどね。ほうれい線は相当深いのかな? とかね!」

「神坂!!」

「ははは。でも、ようやく日常が少し戻ってきた感じで、うれしいね」

「本当ですね。こうやって、ママをからかってストレスを発散するのが、私の日課でしたから」

「そのせいで、ストレスになっている私はどうすればいいのよ?」

「良い本があるよ。『大学』という本。この本を読んで、自分の身を修めて、ちょっとくらいのことで動じない己を創ることをお奨めします」

「お前が言うな!!」


ひとりごと

四書を整理して、儒教の経典を整理した朱子の影響はとても大きいものがありますね。

とくに、『礼記』の中に埋もれていた『大学』を1冊の本にしたことの功績は特出すべきものです。

物語に記載した、中江藤樹、二宮尊徳といった日本の偉人は、みな『大学』を読んでいます。

そう考えると、朱子が出なかったら、日本の精神もまた違っていたものになっていたかも知れません。

【原文】
朱文公、易に於いては古易に復し、詩に於いては小序を刪(けず)る。固より是れ巨眼なり。其の最も功有る者は、四書の目(もく)を創定するに在り。此は是れ万世不易の称なり。〔『言志耋録』第8条〕

【意訳】
朱子は、古文によって書かれた『易経』を正統とし、『詩経』においては小序を削除した。これは偉大な眼力である。そのうち最も大きな功績は、『礼記』に収められていた「大学篇」と「中庸篇」とをぬきだして、『大学』と『中庸』とし、『論語』・『孟子』とともに四書として儒学の経典としたことである。これは永久不変に称えられることである

【一日一斎物語的解釈】
四書五経の四書とは、宋の時代に大儒・朱熹が、『礼記』に収められていた「大学篇」と「中庸篇」とをぬきだして、『大学』と『中庸』とし、『論語』・『孟子』と併せて儒学の経典としたものである


朱子語類

第1933日 「一芸」 と 「人生」 についての一考察

今日の神坂課長は、Youtubeで人気の高い『孔田丘一の儒学講座』を観ているようです。

「朱熹という人は、儒者の中でも飛びぬけて優れた人材なのです。この男の右に出る者はおそらく居らんだろう」

「へぇー、やっぱり朱子って人は凄いんだ」

「彼が、さびれてすっかり人気のなくなった儒学を復活させたと言っても決して過言ではないでしょうな」

「儒学というのは元々実践の学問だけに、統一した哲学のようなものに欠けるという点があるのは致し方ないところでしてな。それはそれで良かったんだが、朱熹はそこに哲学を取り入れた。孔子の思想を徹底的に研究して、表に出ていなかった哲学を引っ張り上げたということでしょうな」

「まあ、しかし、かなり強引な解釈をしている点も多々あって、少々無理をしている感じもありますわな」

「だいたい、孔子を神様のように祭り上げてしまったのはいかん! 孔子の人間臭さこそが、『論語』の魅力のひとつでもあるのにね」

神「でたな、毒舌!」

「ロクに儒学を知りもしない連中が、孔子を堅苦しい親爺だと思っているのは、多分にこの朱子学のせいなのです。だから、やはり『論語』を素直に読む必要がある」

「朱熹の場合は、儒学復興という目的があった。そこをよく理解しておくべきですな」

神「どっちにしても、俺には朱子学はハードルが高すぎる。ちょっと本を読んでみたけど、さっぱりわからなかった」

「さて、その朱熹ですが、彼は儒学者・哲学者としてあまりにも有名なために、実は彼の文章や詩にも素晴らしい才が溢れていることは、あまり知られていない!」

「これは佐藤一斎あたりも頻りに言っていることなんだが、日本ではまったくそう思われていない。彼の哲学があまりにも広遠なために、彼の文章や詩を読もうと思う人が少ないのかも知れませんな」

「ところが、彼は詩の中では、彼もまた普通の人間であることをさらけ出している。こういうものを読めば、朱熹という人にも愛着が湧くのだがねぇ」

神「へぇ、それは意外。俺が『論語』を勉強する前にもっていた孔子のイメージは、実際に『論語』を読んでだいぶ変わったけど、もしかしたら、朱子という人も実はすごく人間臭い人なのかもなぁ」

「孔子は、『君子は器ならず』と言っています。本当に立派な人物というのは、一芸に秀でているだけではダメだということだ」

「そこで、ポカンと口をあけて、バカ面をぶらさげている君! 君は、決まった料理にしか使われない皿に成り下がっていないかね?」

神「びっくりした。俺のこと言ってるのかと思った。このジジイ、時々デカい声を出すから、心臓に悪いよなぁ」

「おそらく、君にも人に自慢できる一芸くらいはあるだろう。しかし、そこにとどまってはいかん! 常に新たなものに挑戦し続けなさい」

神「そして、たまに良いことを言う」

「わしがこうして儒学を人に講じるようになったのは、55歳を過ぎてからなんだよ。50歳のときに脱サラをして、5年間儒学を学び、そして人前で話をするようになった。それまでのわしは料理人だったのですぞ」

「人間、なんでも思い立ったらやってみなさい。わしは今日まで33年間も儒学を語り続けてきた。今や、わしの料理を知る人はいないが、そこらへんの一流料理店よりよっぽど旨いものを作れますぞ!」

神「自慢かよ」

「これは自慢話ではない! 人間いくつになってもやってやれないことはない、ということを言いたいのです。一芸といわず、二芸、三芸と君の専門領域を増やしていきなさい。それが人生に潤いを与えるんだ!」

「そろそろ、しゃべり疲れたからもう終わります。本来30分のコースですが、20分で終えることをお許しください。どうせ、無料なんだからええじゃろ?」

「では、また次回。暇があったら、このジジイの与太話にお付き合いくださいな」

神「この年でこれだけ毒舌のジジイに、チャンネル登録者が10万人もいるんだもんな。不思議な世の中だ。(笑)」


ひとりごと

物語にも書きましたが、孔子は「君子は器ならず」と言っています。

真に世の中に役に立つ人間は、一芸に秀でているだけではダメだ、ということでしょう。

とはいえ、一芸もないのはもっと問題です。

まずは、一芸を仕上げ、そこで満足せずに、次の芸を磨く。

そんな人生を歩んでみましょう!


【原文】
朱文公は固より古今絶類の大家たるに論勿(な)し。其の経註に於ける、漢唐以来絶えて一人の頡頏(きっこう)する者無し。翅(た)だ是れのみにあらず。北宋に文章を以て顕るる者、欧・蘇に及ぶ莫し。其の集各おの一百有余巻、古今比類に罕(まれ)なり。朱子は文を以て著称せられずと雖も、而も其の集亦一百有余巻、体製別に自ら一家を成し、能く其の言わんと欲する所を言いて余蘊(ようん)無し。真に是れ古今独歩と為す。詩も亦韋・柳と相亜(つ)ぐ。但だ経学を以て文詞を掩(おお)わる。人其の能文たるを省せざるのみ。〔『言志耋録』第7条〕

【意訳】
南宋の朱熹(朱子)は古今類まれな大家であることはいうまでもない。経書の註釈に於いては、漢唐から現在まで匹敵する人はいない。そればかりではない。北宋では名文家の欧陽修や蘇軾(東坡)に及ぶものはいない。彼らの文集は各々百巻以上もあり古今類まれな存在である。朱子は文章の点ではそれ程著名ではないが、その文集は百巻以上もあり、作風も自ら一家をなしており余すところがない。まさに古今独歩の観がある。さらに、朱子の詩についても、唐の韋応物(いおうぶつ)や柳宗元などにつぐものである。ただ朱子は経学が非常に優れている為、その文章や詩の良さが覆い隠されてしまっている。そうしたことから、世間の人々は朱子が能文であることに目を留めないのである

【一日一斎物語的解釈】
一芸に秀でた人間というのは、実は多方面で高い能力を発揮するものだ。


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第1932日 「淵源」 と 「末節」 についての一考察

今日の神坂課長は、営業1課の新美課長と喫茶コーナーで談笑中のようです。

「そういえば先日、教育勅語の勉強会に出たんですよ」

「おいおい、大丈夫か? あれって戦争を煽る内容になっているって聞いたけど」

「そういう誤解をしている人が多いんですよ。私も、そのあたりを知りたくてオンラインの勉強会に参加してみたんです」

「で、結論は?」

「そうですね。やはり問題のある個所もあるのは事実だと思います。しかし、それはごく一部で教育勅語全体はとても良い内容であることがわかりました」

「問題の箇所っていうのは?」

「『一旦緩急あれば義勇公に奉じ、以て天壌無窮の皇運を扶翼すべし』という箇所がよく指摘されるところです。『国に緊急の事態があれば、自らの義に照らし、勇気をもって、国を助けるために行動する』と訳すのが客観的な解釈のようです。でも、これを『もし戦争があったならば、天皇のために命を懸けて戦って欲しい』と読む人たちが、勅語は危険思想だと言っているようです」

「それは間違いなのか?」

「間違いというか、時代背景が今とは違う時代に書かれたものですからね。当時はそういうニュアンスを含んでいたのだとは思います。ただ、皇運という言葉は、天皇の運命ではなく、皇国つまり日本の運命と訳すべきだとは思いますけどね」

「なるほどな。それで、結局は何が書かれているんだ?」

「教育の淵源は、日本人が古来からずっと育んできた忠と孝の精神を養うことにある、という点でしょうね」

「忠と孝が教育の根本ということか?」

「忠と聞くと、すぐに忠誠心という言葉を思い出して、楠木正成のように天皇のために命を懸けた人を思い浮かべてしまう人が多いようですが、本来の意味は違います」

「ああ、それはサイさんから教えてもらった。自分に嘘をつかない、とか自分のやるべきことに力を尽くすという意味らしいな」

「そうです。最初の頃の武士というのは、天皇のガードマンという役割だったので、自分のやるべきこと = 天皇の命を守ること、だったわけです」

「それがいつのまにか忠誠を誓うこと、みたいな意味になってしまったのか?」

「そうです。それに現代だって、上司に対しては、ある程度忠の心で接しないと会社はまわりませんよね?」

「あ、ああ。今はそう思う。若いころは上司に逆らってばかりいたから、偉そうなことは言えないが・・・」

「ははは。そうでしたね」

「おい、嘘でも否定してくれよ。(笑)」

「でも、忠の前に、孝があるようです。孝がすべての徳目の基本だ、というのが儒教の考え方らしいですね」

「うん。そしてそれは大きな意味では間違っていないと、俺は思う。親孝行な子供は、会社に入っても上司には逆らわない。と、サイさんは言っていた。ということは、俺は家でも親に逆らっていたのかなと自問自答した。その答えは、イエスだった。(笑)」

「ですから、教育勅語の内容自体は、全体的には素晴らしいものだと思います。しかし、あれをそのまま復活させる、というのは間違いだと講師が言っていました」

「そうだな。時代背景が全然違うのに、それをそのまま復活させるのはあり得ないな」

「はい。そして実は、平成18年に教育基本法が大きく改訂されているのですが、その第二条は大幅に文言が足されて、勅語の内容に近いものがかなり入っているんです」

「へぇ。じゃあ、それでよいじゃないか」

「はい。ただ、その存在がほとんど知られていないのが問題です。それと、そこには孝についての記載はないのも、やや物足りないかなと思いました」

「なるほどな。教育勅語もちゃんと読んでみたくなったけど、それ以上に教育基本法の第二条を読んでみよう。ネットで見れるよな?」

「もちろんです」

「早速、デスクに戻って見てみる。新美、サンキュー!」


ひとりごと

昨日に続き、一斎先生の言葉は、宋学についての記述なので、「淵源」という言葉だけを取り上げて、大幅に意訳して物語を作りました。

小生は先日、教育勅語を客観的に読んでみようというオンラインイベントを開催しました。

恥ずかしながら、その準備の段階で、平成18年に改訂された教育基本法第二条の存在をはじめて知りました。

とても良い条文だと思いました。

ぜひ、ご一読いただき、この存在をもっと知らしめていくべきだと感じた方は、知人にその話をしていただきたいと思います。


【原文】
余恆(つね)に周程の遺書を環読す。宋の周程有るは、思孟と相亜(つ)ぐ。今の学者は徒に朱子の訓註のみを読みて、淵源の自(よ)る所に懵(くら)し。可ならん乎。〔『言志耋録』第6条〕

【意訳】
私はいつも周濂渓や二程子(程明道・程伊川兄弟)の遺した書物を代わる代わる読み返している。宋代の周濂渓や二程子は、孔子の孫の子思やその直系の弟子である孟子からつながっている。今の学者はただ朱子の注釈書のみを読んで、宋学の本源についての理解が浅い。それではいけない

【所感】
物事の淵源はどこにあるのかを常に考え、そこから離れないことを心掛けねばならない。


教育勅語

第1931日 「引用」 と 「原典」 についての一考察

昨日に続いて神坂課長は佐藤部長の部屋に居るようです。

「そういえば、『言志四録』の中に、朱子学を学ぶ人は、朱子の注釈本だけでなく、濂渓の書を学べ、と書いてあったのですが、その辺はどうなのでしょうか?」

濂渓の書籍で和訳されたものを見つけるのは大変だよ。そこまでいくと学者の領域だから、その言葉は学者向けだととらえていいと思うよ」

「なるほど、そうですか。タイトルだけみても難しそうですよね。『太極図説』ですから・・・」

「ははは。私も以前に読んでみたことがあるけど、とても歯が立たたなかったよ」

「部長でそうなら、私には絶対に無理ですね。(笑)」

「ただ、その言葉をあえて学びにしようとするなら、勉強するときはなるべく原典に当ると良い、という点が学びになるんじゃないかな?」

「原典ですか?」

「たとえばね。『至誠にして動かざる者は、未だこれ有らざるなし』という言葉がある。これを吉田松陰の言葉だと思っている人が多いのだけど、実際は『孟子』にある言葉なんだ。だから、松陰の解説を読むことも大事だけれど、原典である『孟子』を読むことを忘れてはいけない、という様に理解してもいいかもね」

「なるほど。そういう意味だと、やはり儒学を学ぶなら『論語』ということになりますね」

「うん。特に四書と呼ばれる、『大学』『論語』『孟子』『中庸』をしっかり勉強すべきだということかな?」

「そういえば、ちゃんと『大学』を読んだことはないですね。次は『大学』を読んでみようかな」

「本当の原典は中国語で書かれたものだけど、さすがにそれを原書で読むのは大変だし、まずは和訳されたものをしっかり読むことだろうね」

「できれば、サイさんがやっているように、ひとつの章句ごとに何冊かの解説本を読むという読み方がよさそうですね」

「それができたら素晴らしいね」

「でも、そう考えてみると、学問に限った話ではないですね。何事も根本に立ち返るという意識が大事だとも理解できます」

「素晴らしい! 我々の商売の根本となると・・・」

「先義後利です!」

「うん、私もそう思うよ」

「利益を優先するより、お客様が何に困っているのか、どんな課題を持っているのかを把握して、その解決のお手伝いをするという意識ですね。これができれば、利益は後から自然についてくるはずです」

「さすがは営業課長さんだ! ところで神坂君」

「はい?」

「さっき言ってた濂渓の本を一冊持ってはいるんだけど、読んでみる?」

「いえ、遠慮しておきます!!」


ひとりごと

ある言葉の出展は〇〇という古典だよと聞くと、自分で調べることもなく、それを信用して引用してしまう。

古典を勉強していると、時々みかける、古典あるあるです。

やはり、一度自分で出典を当たってみるという姿勢を忘れてはいけません。

そして、これは古典に限ったことではなく、どんな分野でも大事な心掛けではないでしょうか?


【原文】
学は周子を以て鼻祖と為す。而るに世に宋学と称する者、徒らに四五の集註を講ずるのみ。余意(おも)う、「周子の図説・通書は宋学の宗(そう)なり」と。学者宜しく経書と一様に之を精究すべし。〔『言志耋録』第5条〕

【意訳】
宋代の儒学は周敦頥(濂渓)を始祖として始まっている。しかし世の中で宋学者と自称する者は、ただ四五冊の朱子が宋儒の注釈を集めた本を講義するだけである。私は「周濂渓の『太極図説』や『通書』は宋代儒学の源である」と思っている。学者は経書だけでなく、これらの書も研究すべきである

【一日一斎物語的解釈】
学問をする際は、原典を学ぶことが肝要である。


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第1930日 「文字」 と 「解釈」 についての一考察

今日の神坂課長は、佐藤部長の部屋に居るようです。

「サイさんの読書会って、『論語』を読むんですけど、実は『論語』以外から多くの気づきを得られるんですよね」

「どういうこと?」

「サイさんの作ってくれるテキストは、『論語』の一つの章句に対して、40冊くらいの解説本の中から、サイさんが面白いと感じた解説を抜き出して記載してくれているんです。そういう学者先生の解説の中に、心に響く言葉がたくさんあるんですよ」

「なるほど、一つの章句を多面的に切るわけか」

「はい」

「さすがは西郷さんだね。あの人は、仕事でも常に多面的に物事をみることを意識していたよね。ドクターの視点、ナースの視点、患者の視点、経営者の視点といった感じで、医療機器のメリット・デメリットを分析していたもんね」

「ああ、そういえばそうでしたね。あの読書会に出るようになって、孔子のイメージが変わりました」

「多くの日本人にとって、孔子という人はお堅い人物だと思われているんだろうね。それは、朱子たちが儒学の価値を高めるために、孔子を神様のように祭り上げてしまったことに原因があるんだ」

「はい。日本が江戸時代に広めたのは朱子学ですもんね。ところが、実際の孔子という人は、思った以上に人間臭いんですよね」

「『論語』をしっかりと読み込むと、そう感じるよね。だからこそ、多くのお弟子さんがついてきたんだよ」

「それなのに妙に文字に拘ったり、この字は本当は別の字ではないかみたいなことが書かれています。学者先生だから仕方のないことですが、私たちからしたら、それほど重要なことじゃないのに」

「学者さんは、プロだからね。極力、正しく読むことを心掛けるのは当然だよ。でも、私たちはプロじゃないから、そこから何を学ぶかの方が重要だろうね」

「そうですよね。サイさんのテキストをみて驚いたのですが、『論語』に関しては、あれだけの専門家でもみんな微妙に解釈が違うんですよね。そこが『論語』の懐の深さだとサイさんは言っていました」

「私たちは白文では理解できないし、やはり注釈がないと読めないから、注釈は絶対に必要だけど、『論語』の場合は1冊で読もうとすると、その訳者の『論語』を読むことになってしまうんだろうね。その点、サイさんのテキストは素晴らしいね。多くの解釈を一覧できるんだもんね」

「そうなんです。そして、『私はこの先生の解釈が好きだから、この考え方を取り入れてみます、といった感じで、参加者の皆さんもそれぞれに違った受け取り方をしているんです。それを聞くのがまた勉強になる」

「良い読書会だね。私も出てみようかな?」

「ぜひ! あ、でも、サイさんにはプレッシャーになるかな?」

「ははは。大丈夫でしょう。私は『論語』はそれほど詳しくないからね!」


ひとりごと

『論語』自体は、書かれたのが2500年前と古く、また大変シンプルな言葉で書かれているため、章句ごとの解釈は学者先生によってかなり違っています。

このため、より多面的に読むには、一つの章句をそれぞれの先生がどう解釈しているかを見ていくのが一番良い方法です。

小生が主査している潤身読書会では、この方式でテキストを作成しています。

COVID-19のお陰で、リアル開催ができなかったため、最近はオンラインで開催しています。

日本全国どこからもでも参加できますので、ご興味のある方はぜひご参加ください。


【原文】
漢唐の経を註するは、註即ち註なり。宋賢の経を註するは、註も亦経なり。読者宜しく精究すべき所なり。但だ註文に過泥すれば、則ち又経旨に於いて自得無し。学者知らざる可からず。〔『言志耋録』第4条〕

【意訳】
漢・唐の時代に経書に注釈をしたものは、字句の解釈のみである。宋代の賢者が経書に注釈をしたものについては、その注釈自体がまた経書のようである。学ぶ者は詳しく研究すべきである。ただ字句の解釈に拘泥すれば、そこから得られるものはない。学者はこのことをよく理解しておくべきである

【一日一斎物語的解釈】
経書の注釈からも学ぶべきところは多い。しかし、ビジネスや日常に活かすのであれば、必要以上に文字に拘ることは百害あって一利なしである。


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第1929日 「古典」 と 「心」 についての一考察

喫茶コーナーで休憩中の神坂課長のところに、大累課長がやってきました。

「あ、居た居た。神坂さん、この本読んでみませんか?」

「どれ、『万葉の秀歌』? これって万葉集の本だろう?」

「そうです。すごくよかったですよ」

「お前、いつの間に和歌に興味を持ったんだよ?」

「いや、実は最近とある読書会に参加していましてね。その課題本だったんです。最初は、この分厚さと古語のオンパレードで読み切るのは無理だと思っていたんですけど、いざ読みだしたら面白いんですよ!」

「へぇ、お前にそんな風流な心があったとはな」

「自分でも驚きました。(笑)」

「でも、わかる気がするよ。今の子供って意味がわからないと先に進めないらしいんだよ。だから、ひとつ言葉の意味がわからないとそこで止まってしまう。その点、お前とか俺みたいなバカは、そんなことに一々構ってたら一向に前に進まないから、とりあえず読み飛ばしていく」

「そうそう、まさにそういう読み方をしていたら、なんだか少しずつ和歌がわかるような気がしてきました」

「経書や古典を読む時は、字面にこだわらずに、自分の心の中をさらけ出して読めって、多田先生に言われたことがある。自分の心の中を読めってな」

「その話はなんだか難しいですね。とにかく、読んでいると、いつの間にか情景が浮かんでくる歌もたくさんあったんです。それに、意外といいなと思う歌の作者がわからなかったりするんです。昔の人ってすごいですよね」

「江戸の終わりから明治初期くらいまでは、漢詩を作っている偉人もたくさんいるからな。日本人は西洋化とともに、大事なものを失ってしまったのかもな」

「私もそれを感じました。私には中国古典はキツイですけど、これなら勉強する気になれます」

「いいじゃないか。和歌は自然と人間を一対にして歌にしているから、きっと大自然の法則を学びとることもできるぜ」

「そういう小難しいことはわかりませんけど、ちょっと和歌を勉強してみます。神坂さんもその本読んでみますか?」

「お前がそこまで言うなら読むよ。もしかしたら、和歌には日本人の大切な精神とか、大自然の法則なんかも書かれているかも知れないからな」

「どうします、そのうち俺たち二人が和歌で会話するようになったら?」

「そのときは、大自然が破壊するときだ。(笑)」


ひとりごと

経書を読むことは、自分の心を読むことだ、という一斎先生の表現は難解ですね。

技術や知識の先にある聖人の心と会話をしなさいという意味なのでしょうか?

経書を読む際には、文字にとらわれず、聖人の心に自分の心をぶつけていく。

そんな読み方を推奨しているのでしょう。


【原文】
経書を読むは、即ち我が心を読むなり。認めて外物と做(な)すこと勿れ。我が心を読むは、即ち天を読むなり。認めて人心と做すこと勿れ。〔『言志耋録』第3条〕

【意訳】
儒学の経典である経書を読むということは、自分の心の中を読むということである。心の外の物だと見なしてはいけない。自分の心を読むとは、天を読むのである。人の心だと見なしてはいけない。

【一日一斎物語的解釈】
古典を読む際には、その内容を自分の身に置き換えて、自分の心の中を読むという意識が重要である。それはすなわち、大自然の法則の中に生かされている自分の心をとらえるということなのだ。


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第1928日 「心教」 と 「仕事」 についての一考察

今日の神坂課長は、A県立がんセンター消化器内科の多田先生を尋ねたようです。

「おう、神坂。直接顔を見るのは久しぶりだな」

「ご無沙汰しておりました。これから少しずつ営業活動も再開します」

「しかし、もう以前のようにはならないだろう。Web営業が一般化するんじゃないのか?」

「その可能性は高いですね。どうやら各メーカーさんは、そういう手法をいろいろ模索しているようです」

「くだらないことで顔を出したら、『お前、そんなことでわざわざアポを取ったのか?』なんて言われるぞ」

「特に多田先生に会う時は要注意です」

「で、今日の用事はなんだ?」

「え? ああ、今日はただの顔見世です」

「じゃあ、顔は見れたからもういいな」

「あ、ちょっと待ってください。先生は、後輩や部下に仕事を教えるときは、どんなことに注意しているのですか?」

「とってつけたような質問だな。医者を育てる話に限定するぞ」

「はい」

「医者になるステップとしては、まず学生時代は、主に教科書を使って勉強をするわけだ。要するに文字から入る勉強からスタートする。そして、レジデントになってからは、実践が入ってくる。技術を体得する勉強が加わるんだ」

「なるほど。まず言葉で伝え、次に実際の臨床を見学してもらい、其れから徐々に内視鏡を握らせていくわけですね?」

「技術は目と頭だけでは修得できないからな。やはり体得だよ」

「はい。でも肝心な医者の心掛けみたいなものは、教えないのですか?」

「神坂、そこが一番重要なところだ。真の医療は、技術だけでは身につかない。心が備わらないとな」

「ですよね! それで、心はどうやって教えるのですか?」

「教えないよ」

「え?」

「というか、教えられない。俺たちにできるのは、場の提供だけだ。内視鏡の手術でも、簡単なものから次第に難しい手技を教えていく。そういうステップを踏む中で、何を感じるかは本人次第なんだ」

「はぁ」

「だから、何を感じたか、自分ならどうしたいか、ということを常に質問して、自分で考えるように仕向けて行く。そこが仕事を教える上で一番大切にしているポイントだな」

「答えは教えないのですね?」

「医療の場合、定まった答えはないんだ。何が正解かは結果が出てからしか分からないことも多い。自分で考え、失敗をし、心に大きな傷を負う。そういう中で自分なりの医者としての心を作っていくしかないんじゃないかと思っている」

「ああ、わかる気がします。私達のような営業の世界でも、やっぱり営業人の心というのは、みんな違う気がします。先生方のように人の命に直接関与しない分気楽なのかもしれないですが」

「どうだ、これで良いか?」

「ありがとうございました!」

「思いつきの質問の割には、面白い答えが引き出せたな?」

「はい、ラッキーでした。あっ!」


ひとりごと

どんな仕事でも、最後の仕上げとして心を学ぶ必要があるのではないでしょうか?

いわゆる免許皆伝となるには、技術だけでなく、心を仕上げなければなりません。

しかし、心を磨くのは、一朝一夕にはできません。

多くの経験を積み、その都度自分なりの答えを出しながら、徐々に仕上げていくものなのでしょう。

その期間は、おそらく30年といったところではないでしょうか?


【原文】
教えに三等有り。心教は化なり。躬教は迹(せき)なり。言教は則ち言に貸す。孔子曰く、「予言う無からんと欲す」と。蓋し心教を以て尚(しょう)と為すなり。〔『言志耋録』第2条〕

【意欲】
教育には3つの段階がある。心教は心で諭し、心を感化する教育である。躬教は身をもって率先垂範し、型を身につけさせる教育である。言教は言語の解釈によって知識を蓄える教育である。孔子は「予言うこと無からんと欲す」と言った。これは思うに心教をもって、第一としたのであろう

【一日一斎物語的解釈】
人を教え導くには、心を感化する方法、自ら率先炊飯する方法、そして言葉の解釈を伝える法がある。なかでも重要なのは心の感化である。


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第1927日 「古人の心」 と 「わが心」 についての一考察

今日の神坂課長は、元同僚の西郷さんと食事をしているようです。

「それにしても、サイさん。『論語』って、文章がシンプルですし、言葉の背景みたいなものが書いていないので、どう理解して良いのか悩む章句も多いですね」

「そうだね。でもね、それが『論語』の魅力だと思うんだ」

「どういうことですか?」

「たとえば、ある孔子の言葉について、その言葉は孔子がどういう場面で、どんな心境で語った言葉だ、ということがすべて分かっていたら、幅広い解釈はしづらいよね?」

「そうですね」

「きっとこういう場面ではないか、と想像するから、それを自分の立場に置き換えて読むことができるんじゃないかな」

「なるほど、実際にどういう場面だったかを正すより、ある程度勝手に解釈して自分の糧にした方が良いということか」

「私はそう思う。『論語』の解説本は巷に溢れているんだ。私の書棚にも『論語』に関係する書籍が100冊以上ある」

「『論語』だけで、100冊ですか!?」

「私も数えてみて驚いた。それだけに、本当に数多くの学者や経営者が『論語』について、それぞれ独自の解釈を与えているんだ」

「へぇー」

「だから、その中から正解を探すのではなく、もっとも自分の心に響く解釈を採れば良いと思うんだ」

「書いた人も十人十色なら、解釈も十人十色なわけですね。面白いなぁ」

「そういうこと。ただし、ずっと『論語』を読んでいると、自然とその言葉が発せられた場面が映像として浮かんでくるし、孔子のこの時の心境はきっとこうだっただろう、という予測がつくようになってくる」

「そこまで読み込めたら凄いなぁ」

「神坂君、学問というものはそういうものだと思うよ。まずは先人が遺した文章と格闘する。次にその人が実際にどんな行いをしたかを調べる。それを徹底していくと、その人の心境というものは、ある程度見えてくるんじゃないだろうか?」

「そうか、常に、『なぜ、この言葉を選んだのか』ということを想像しながら、その人の文章や行動を学ぶと、心の中まで見えてくるのですね」

「うん。見えてくるというか、先人の心と自分の心が一体になるんだろうね」

「すごいな、孔子の心とサイさんの心が一体になるんですか!?」

「いやいや、私はまだまだ一体になるレベルまでは達してないよ。きっとこうじゃないかなと予測ができるようになっただけ」

「それでもすごいですよ。なるほどな。学びの順序としては、まず文章を読む、次に行動を知る、そして最後に心を知る、というステップなんですね

「神坂君は頭の回転が早いね。そのとおり。ただ、最後は『心を知るというよりも、心がわかるという表現の方が適切かもね」

「いやー、学問って深いですね。私はバカですから、これからもサイさんについて行きます。ご指導よろしくお願いします」

「こちらこそ。私も優秀な後輩がついてきてくれるのは、とてもうれしいよ!!」


ひとりごと

小生が主査する『論語』の読書会・潤身読書会では、これまで丸6年間にわたって『論語』を読んできました。

何度も読んでいると、自然と言葉の背景となる情景が目に浮かんでくることもあります。

そして、多くの学者先生はAと言っているが、本当はBなのではないか?などと、不遜な考えが浮かぶこともままあります。

そのように『論語』を読んでいると、とても楽しく学ぶことができます。

古典を学ぶ際には、ぜひ今回の一斎先生の言葉を思い出して、まずは文章と行動を理解して、そこから自然と心がわかるという学びを目指したいものです。


【原文】
学は一なり。而も等に三有り。初めには文を学び、次には行(こう)を学び、終りには心を学ぶ。然るに初めの文を学ばんと欲する、既に吾が心に在れば、則ち終りの心を学ぶは、乃ち是れ学の熟せるなり。三有りて而も三無し。〔『言志耋録』第1条〕

【意訳】
学問の道は一つである。しかしそこには三つの段階がある。初めに人の文章を学び、次に人の行動を学び、最後に人の心を学ぶのだ。実際には、最初のの文章を学びたいという気持ちが自分の心に芽生えたのであれば、学問によって自然と心が成熟して、古人の心を理解できるようになるものである。そういう意味で、学問には三段階あるといっても、それはすべて心の中に一貫してあり、別々のものではないのだ

【一日一斎物語的解釈】
先人の残した文章を学び、先人の行動を学べば、自ずと先人の心まで理解できるようになる。ここまで達して初めて学問と言えるのだ。


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