今日のことば
【原文】
古書は固より宜しく信ずべくして、未だ必ずしも悉くは信ず可からざる者有り。余嘗て謂う、「在昔通用の器物は、当時其の形状を筆記する者無かりき。年を経るの久しきに至りて、其の器も亦乏しくして、人或いは其の後に及びて真を失わんことを慮り、因って之を記録し、之を図画し、以て諸を後に貽(のこ)せり。然るに其の時に至りては、則ち記録・図画も亦既に頗る謬伝(びゅうでん)有るなり。書籍に至りては、儀礼・周官の如きも、亦此(これ)と相類す。蓋し周季の人、古礼の将に泯(ほろ)びんとするを憫(うれ)い、其の聞ける所を記録し、以て諸を後に貽せり。其の間全く信ず可からざる者有り。古器物形状の紪繆(ひびゅう)有ると同一理なり。之を周公の著わす所なりと謂うに至りては、則ち固より盲誕(もうたん)なること論亡きのみ」と。〔『言志耋録』第224条〕
【意訳】
古い書物は元来信ずべきものではあるが、必ずしもすべてが信用できるものではない。私はかつて、「昔、一般的に使用された器物については、当時はその形状を記録したものは存在しなかった。年月を経て、それらの器物も希少となり、人びとは後の世に実際の形状が忘れられることに配慮して、これを記録し、図や絵として書き留め、後の世の為に残したのである。しかしその頃には、記録や図画も既にかなり間違って伝わっているものもあった。書籍に関していえば、『儀礼』や『周礼』などもこれと同様であろう。思うに周代末期の人々が古い礼が廃れることを患いて、聞いたことを記録し、後世に残したのである。それらは全部が全部信用できるようなものではない。古代の器物の形状があやまりであることと同じ理由である。これら(『儀礼』・『周礼』)を周公旦の著作だと言うに至っては、当然でたらめであることは論ずるまでもないことである」と言った。
【一日一斎物語的解釈】
古い書物が必ずしも信頼できるとは限らない。古典を読む時は、真偽にこだわるよりも、自分を成長させるために読むべきだ。
今日のストーリー
今日の神坂課長は、佐藤部長と「季節の料理 ちさと」で食事をした後、久しぶりにもう一軒寄り道をしたようです。
「本当に今年もお世話になりました。部長には足を向けて寝れません」
「こちらこそ、神坂君にはいろいろとお世話になりました」
「え、私がですか?」
「まず、営業2課だけでなく、営業部全体をよくまとめてくれたよね。とても感謝しているよ」
「嬉しいお言葉です」
「古典の学びのお陰かな?」
「はい。それは間違いありません。ただ、部長」
「何?」
「古典に書かれていることはすべて事実とは限らないんですよね?」
「そうだね。たとえば『論語』にも、後から紛れ込んだと思われる文章もある。そもそも、孔子は堯や舜については語っていないのではないか、という説もあるしね」
「そうなんですね」
「ただね。事実か否かというところにあまり拘る必要はないかもね」
「そうですよね。自分にとってプラスになるように読めば、それで良い気がします」
「うん、今から2500年前のことが事実かどうかを深堀りするより、今に活かせることを学びとれば良いんだよね」
「はい、以前にも部長にそう言われたことを覚えています」
「うん、私はずっとそういう読み方をしているよ」
「来年も自分の行動変容につながる読み方をしていきます。古典ではないですけど、最近、宮城谷昌光さんの『孔丘』という本が出たので購入しました。年末年始はこれを読むのが楽しみです」
「宮城谷さんがどう孔子を料理するのか、楽しみだね。実は、私も買ったんだ」
「では、年明けに感想を語り合いましょう!」
「そうだね。では、そろそろ」
「はい。佐藤部長、どうぞ良いお年をお迎えください。そして、来年も変わらずよろしくお願い致します」
「こちらこそ。良いお年を!」
ひとりごと